反応しない練習

「心の反応」と言われて、ピンとくる人は、どれくらいいるでしょうか。実は、私たちの日常は「心の反応」で作られているといっても、過言ではないのです。たとえば、朝の通勤ラッシュで「今日も混んでいるな」とゲンナリする。これは、心を憂鬱にさせる反応です。心ない相手の態度にイラッとする。これは、怒りを生む反応です。

なるほど。

目次

もくじ

反応する前に「まず、理解する」

道を生きる者よ、生きること(①)は苦しみなのだ。老いること(②)、病にかかること(③)、死(④)は、苦しみである。  厭わしい者と出会うこと(⑤)、愛する人と別れなければならないこと(⑥)も、苦しみである。求めるものを得られないこと(⑦)、ままならない人間の心(⑧)もまた、苦しみである。

-ブッダの最初の説法

二五〇〇年前にブッダが語った「人生には苦しみが伴う」という現実は、永久の真理です。

苦しみもあるし幸せもある。自分がいつももどれる中庸があることが大切。

〝求める心〟のことを、仏教の世界では「渇愛」と表現してきました。 「求めつづけて、いつまでも渇いている、満たされない心」のことです。たしかにこれは、私たちの実感としてありますね。  大切なのは、「心とは、そもそもそういうものだ」と理解しておくことです。

心とは求め続けて、いつまで渇いている、満たされない心。そうすることで幸せでも、苦しくてもどんなときでも自分を肯定できる。本当の自己肯定感ができる。

「アタマが混乱していて落ち着かない」「心がざわついている」と客観的に確認します。特に「目をつむって」確認してみると、心が落ち着きます。

冷静になるとはこういうこと。

仏教の世界では「ラベリング」(ラベル貼り)と呼ぶことがあります。心の状態にぺたりと「名前」を貼って、客観的に理解してしまうのです。

わかりやすい。怒りには「怒り」「イライラ」「憤怒」などのラベリングをしていく。など。

実践していくと見えてきますが、言葉で確認すると、「反応から抜け出せる」のです。反応から抜けると、心は落ち着きを取り戻します。 「言葉で確認する」作業は、メンタルヘルスの基本として、お勧めできます。

書くでもよい。目をつぶってラベリングするでもよい。言語化することが大切。

①言葉で確認する、②感覚を意識する──は、ブッダが生きていた時代には、「サティ」(sati)と呼ばれていました。禅の世界では「念じる」、瞑想の世界では「マインドフルネス」と呼ばれています。

マインドフルネス系の本第2段。一冊目はこちら

自分に、他人に「求めすぎていないか」を、つねに気をつける習慣をつけたいものです。 貪欲に支配されると、自分自身が苦しいし、関わる相手も必ず不幸にしてしまいます。

期待をしない。

心の状態をよく見て、怒りがあることを感じたら、「怒りがある」と理解しましょう。そうやって、怒りを「洗い流して」いけば、心はすっきりと軽くなっていくものです。

認めてラベリングするだけでよい。

仕事や家事に「追われている(あれもこれもやらなきゃ)」と感じたり、「この先どうなるのだろう」と不意に不安に駆られたり、悲しい過去を振り返って落ち込んでしまったりという心境もまた「妄想」から来ています。

そうなんだ。追われているのも妄想なのだね。たしかに、現実を直視していない時点で煩悩。そして妄想。
妄想をしたらラベリング。

こうして、「妄想」と「感覚」の違いを意識しながら、「感覚のほうに意識を集中させる」練習を積んでいくと、「妄想から抜ける」ことが上手になっていきます。

今を生きる。今を集中する。

良し悪しを「判断」しない

こうしてみると、「判断」が、いかに私たちの人生を支配しているかが、見えてきます。人間の心には、例外なく、判断しすぎる心があるのです。

たしかにそうかも知れない。

これらの苦しみが止むとは、どういう状態なのだろうか。それは、苦しい現実そのものではなく、苦しみの原因である〝執着〟が完全に止んだ状態なのだ。

サルナートでの五比丘への開示 サンユッタ・ニカーヤ

「かなわなかった過去の願い」が、苦しみを生んでいる。
「失敗した」(こんなはずではない)という判断が、苦しみを生んでいる。
「相手はこうでなければ」という期待・要求が、苦しみを生んでいる。  
これらの「執着」を手放さなければ──でないと、自分も相手も、苦しみつづけてしまう。

執着によって人は苦しむ。必要な判断はあるが、「執着」すると、苦しみが生まれる。

あなたにも、「判断」による苦しみがなかった時代が、あったはずです。  
もう一度、その頃の「自由な心」へと向かっていくのです。

子供の頃の自由な心へ。

ということは、人間が考える多くの判断は、実は真実でもないし、有益でもありません。いわば〝ヒマつぶし〟です。なぜそんな判断をしているかといえば、すでにお伝えした通り「判断自体が気持ちいい」ことと「承認欲が満たせる」ことが理由でしょう。

判断そのものが気持ちいい。承認欲求を満たせる。とは考えたこともなかった。

「つい判断してしまう」からの卒業

「今日はついていない」「失敗したかも」「あの人は苦手、嫌い」「自分はダメな人間」といった思いがよぎったときは、「あ、判断した」と気づいてください。

判断していると、気づくことが大切。

他人はあれこれと判断するかもしれないが、自分はこれ以上苦しみたくないから、判断を手放そうと肚を決めるのです。

この世は判断で溢れている。だから判断をしないと決める。流されない。

「人は人。自分は自分」という明確な境界線を引くのです。

自分の心は自分で決める。人に流されない。

「自分を否定しない」。どんなときも

一つは、すぐに外に出ること。散歩することです。一時間でも、二時間でも、歩けるところまで、歩いてみてください。

シンプルに太陽の光をあびることは大切だ思う。散歩でマインドフルネス。グッド。

日頃ネガティブな判断が心に湧いてきたら、そこで「ゲームオーバー」だと考えましょう。その先に待っているのは、自己否定という暗い妄想です。その闇の中に希望はありません。考えても答えは見つかりません。

鬱への入り口。

人生に、あやまち、失敗はつきものです。ただ肝心なのは、そのとき「どう対応するか」なのです。  落ち込まない。凹まない。自分を責めない。振り返らない。悲観しない。

反省は大事。そのことが起きた理由を明晰化して、そこで処理。そして後には引きずらないこと。

自信なんて、考えなくてよいのです。先のことはわからない。それよりも、今しておかなければいけないことがある──それが正しい考え方です。これは、仏教を持ち出すまでもなく、多くの人が共有している真実だろうと思います。

自信があるなしもまた判断。ただやればよい。行動するだけ。

「自分はできる」と勘違いしている人──根拠のない自信家──については、仏教は〝ノータッチ〟です。

科学的にはテストステロンじゃない?

人によっては「自信がないから、もうしばらく様子を見よう」と、大事な決断を先延ばしにしたり、「自信をつけたいから、もっと頑張らないと」と無理しすぎたり、「自信をつけるために、次はこの資格を目指そう」と、自分にムチを打ちつづけるということが起こります。

頑張り過ぎは良くない。自分を苦しめることになる。資格を勉強しているが、あくまで経営をしてみようという気持ちから。「やってみるかぁ」という軽いノリでよい。

「自分はまだまだ」と感じている人は、たくさんいると思います。  しかし、その「まだまだ」こそは、必要のない判断・妄想です。本当は、そうした思いに反応しないで、ただ今なすべきこと、今できることを、やっていく・やってみることのほうが大切なのです。

ただ目の前のことをやるだけ。やってみる、ただそれだけで成功なのである。

わたしはわたしを肯定する。そして、今できることをやっていこう、と考えましょう。

肯定するのはポジティブシンキングではない。

本当は、今この瞬間に、なんの判断も必要ないのです。ただ「やってみる」だけ。そうやって「体験を積む」だけでよいのです。

こころが動いたものをやる。とりあえずやる。

①やってみる
②体験を積む
③ある程度の成果を出せるようになる
④周囲が認めてくれるようになる
⑤「こう動けば、ある程度の成果が出せる」と見通しがつくようになる

上記で自信がつく。「とりあえず、ただやってみよう。」「やってみる」という発想に立てれば、仕事、人生は、かなりラクになります。

こうした態度は、できるかできないかという結果に「執着しない」、仏教的な心がまえといえるかもしれません。

できなくてもいいじゃん。でも一生懸命やってみようよ。とりあえず。

感情を、上げもせず、下げもせず

ブッダの合理的態度から学べることは、「反応しないことが最高の勝利である」という理解です。  仏教における勝利とは、相手に勝つことではありません。「相手に反応して心を失わない」ことを意味するのです。

深い。難しいぞ。

「あなたにとっては、それが正しいのですね」と、ただ理解するだけです。 「そうは言っても、白黒つけないといけないときもある」と思うかもしれませんが、それはこの後に取り上げる「相手との関わり方」の問題です。ここではまず「反応しない」心の作り方を考えましょう。

今日、妻とのやりとりで即座に反応した自分がいた。「そうじゃなくて、こっちのほうがいいんじゃないかなぁ」と。それは反応。理解をしてもない。

後ろ半分の「気づきの心」がぐらつくと、相手への「反応」に一気に流されてしまいます。あとは、怒り、緊張、怯え、恐怖、疑念、記憶、妄想、悲しみ……といった煩悩の波にのまれます。泣くか、恨むか、「ひどい」「ふざけるな」「ああもう、くやしい」という、あのおなじみの反応の嵐に巻き込まれてしまうのです。  だから、最初から不快な感情が湧かないように、なるべく反応しないようにと努めるのです。心がけていれば、だんだん不動心──反応しない心──が育っていきます。

ブッダが教える「反応するな、まず理解せよ」という態度をつらぬけたからのように思えるのです。

手強く厄介な相手にも、反応をせず理解する。反応の応酬になってしまう。

困った相手と「どう関わるか」

最初に、相手との関わり方の原理原則をまとめてみましょう。
①相手のことを「判断」しない
②過去は「忘れる」
③相手を「新しい人」と考える
④「理解し合う」ことを目的とする
⑤「関わりのゴール」を見る

理解されて、理解する。これだけでOK。

人間にとって一番大切なのは、「心に苦悩を溜めない」ことです。どんな幸福感も、苦悩(という反応)によって、いつも台無しになってしまうからです。

いちばん大切なこと。

相手のことを思い浮かべて、「あの人はここがダメ」とか「あんな性格ではきっと苦労するに違いない」と判断しつづけることは、自分自身にマイナス

やりがちだから、これは心に留めておきたい。

もう一つ大切なことは、過去を引きずらないこと、忘れることです。

過去を忘れて今を生きる。マインドフルネスがここにある。

でもその場を離れてもなお、相手のことがアタマから離れず、ムシャクシャ、モヤモヤ、イライラしているとしたら、その原因は「相手」ではありません。自分の中の「記憶」です。

もう一つ大切なのは、「理解し合うこと──理解を共有すること──が大事」という前提に立っておくことです。  自分自身の感情、思い、考えを、相手に理解してもらうこと。これほど大切なことはありません。

理解して、理解される。

「こういうことはやめてほしい」と思うなら、「やめてほしい」と伝えることです。そこまでが自分自身にできること。それを相手がどう受け止めるかは、相手の領域です。様子を見ることにしましょう。  大切なのは、「理解してもらうこと、理解し合うことが大事なのだ」という理解です。

苦しめ合うために、関わっているのではない。 理解し合うために、お互いの幸せのために、関わっているのだ。

やさしさで溢れている。

快を増やせ。不快を減らせ。 そうして、快適な人生を作っていきましょう。

Simple is best.

他人の目から「自由になる」

ネットやマスメディアを通じて、煩悩を刺激するさまざまな映像や情報が、いくらでも飛び込んできます。そうして心にインプットされた〝反応の記憶〟は、自分でも予期しない形で脳裏によみがえってきます。 ただ、それらは全部「妄想」です。真に受けるに値しないものだと、最初に知っておきましょう。 「妄想は妄想にすぎない。何が思い浮かんでも反応しない」という覚悟が、大事なのです。

現代人は本当に苦しい。スマホで様々な情報に触れて、インプットされる。そして、それが妄想として引き起こされる。もはや集中することすら大変難しい。意志でも抗えなくなっているレベルかもしれない。まだ、間に合う、確固たる意志を持って「今を生きる」。そしてそれを周りに押し付けない。

ただ大切なのは、自分自身の人生の「目的」を、はっきりさせることです。

自分の心をよく理解するように努め、合理的な考え方・理解の仕方を学んでいくことです。あなたの苦しみが、「この人生」の中で生じたものである以上、この人生の中で必ず解決できます。

「気づく」ことは「手放す」ことへのきっかけになります。心のクセがこの先どこまで出てくるか、観察につきあってあげることにしましょう。

とことん「気づき」にフォーカスをすること。

本当は、「自分のことに集中する」のが一番だというのは、みんなわかっているのです。

自分のことに集中しているときは、まじで周りと比べることがない。逆に、ふわふわしているときは比較をしてしまう。人間の性。

比較している状態とは、妄想という「ヒマつぶし」と変わらないのです。

自分のことに集中していると、比較という感情も浮かばない。

「承認欲」を満たしたいなら、そのための「正しい努力」をしましょう。三つの条件があります。
①認められたい気持ちをモチベーションにして、今の仕事・生活を「改善」していく。
②どんなときも「自分のモノゴトに集中」する。
③「自分で納得できる」ことを指針(基準)とする。

これ、特に②がとても大事だと思っていて、DeNAの南部さんが言っていた「コトに向かう」である。
自分がコトに集中していると余計なことを考える暇がない。また、父親から言われた言葉で人生で唯一頭に残っていることは「暇になるな」である。暇になると人間、妄想を始めてしまう。唯一であるから流石に人生で体現したいところだ笑

他人の物事のために、自分のなすべきことを捨て去ってはならない。 自分の物事を熟知して、自分のなすべきことに専念せよ。

ゴルフにお金を使い込んで、目標達成したけど、まぁこれはこれで素晴らしい体験だった。と胸を張って言える笑
こっちのが清々しい。これが「なすべきこと」だったのかは謎だが、仏教的には煩悩まみれなんすかね?笑

正しく競争する

「承認欲」を満たせる記号──地位やブランドや学歴や容貌、キャリア──なども含まれます。  これらの記号は、数にかぎりがあります。だから同じものを求める人間同士で、奪い合いが始まります。勝ち取ることが「勝利」です。これが「競争」の始まりです。

いつの時代も争いのよぉ。

人はけして満たされることなく、何かを貪り、何かを勝ち得ようと望んでいる。  それは、求める心(タンハー)に突き動かされて、心渇いている姿である。

その事実をまずは知ることが大事。

「なんで勉強しなければいけないの?」と考える子どもは、学校の勉強がただの観念、記号、妄想にすぎないということが直観的にわかっているのでしょう。別に楽しいわけでもなく、知的欲求を満たせるわけでもない。「快」もないのに続けるなんて、心にはかなり不自然です。

こんな心と身体がチグハグなことをしていたら、そりゃいつか分離するよ。ってね。

その世界では、自分に満足するということが決してありません。どこまでも「プライドを守れる」有利な記号を探して、それを手に入れるゲームが続きます。学部も、進路も、ことごとく「プライドを守る競争」に勝つために選びます。社会に出て何十年経っても、定年を迎えても、なお「プライド」にこだわりつづける人生がありました。

これは共感できる人も多いのでは?

考えるべきは、競争という現実に「自分はどう向き合うか」です。自身の態度を確立せよ、と仏教は語りかけるのです。

見たくない、会いたくないような世界があるのも事実。

競争という現実に、どう向き合うか──多くの人が思いつくのは、次の二つでしょう。  
①競争に参加して、勝利を目指す(世の中はそんなものだと割り切る)  
②競争から降りて、違う生き方を目指す

ちがう価値を生み出して競争のレールにのらないこと。かな・・・。

③競争の中を、違うモチベーションで生きる

そうそう、俺がいいたいのはこれ。他人がのってこないようなニッチな世界。
あり方としては「勝つ」という動機で競争社会を生きずに、「自分に勝つ」をテーマで生きていくなど・・・
このスタンスは考えないとね。会社の戦略にももろ影響する。

勝ちたい、勝った、負けたくない、負けた……どれも妄想です。今浮かんでいる妄想が、「競争」の正体です。  
では、パッチリと目を開いてください。目の前の光景をよく見つめます。部屋の中でも、外の景色でもかまいません。  
そのとき見えているのは、光(視覚)です。先ほどまで脳裏に浮かんでいた妄想は、どこを見ても存在しません。

たしかに。眼の前には現実があるだけ。勝ち負けは概念でしかなく、妄想でしかない。勝ち組、負け組という資本主義上の概念も誰かの妄想であると。

勝ち負けや優越・劣等という判断が苦しいなら、目を開いてください。  
目を閉じるのは、反応しないため。目を開くのは、妄想から目を醒ますため。
シンプルですが、これが競争という名の妄想から抜け出すための第一歩です。

心の自由を取り戻せ。

慈【慈しみの心】──これは、相手の幸せを願う心です。自分の都合や欲求を通すことではなく、純粋に「相手が幸せであるように」と願う心のことです。  
悲【悲の心】──これは、相手の苦しみ・悲しみをそのまま理解すること。相手の「悲」に共感することです。  
喜【喜の心】──これは、相手の喜び・楽しさをそのまま理解すること。相手の「喜」に共感することです。  
捨【捨の心】──これは、手放す心、捨て置く心、反応しない心です。「中立心」ともいいます。たとえば、欲や怒りという反応に気づいて、ストップをかける心がけです。

ブッダが教える、人生の大きな心がまえ。ちょっと心が楽になるコツらしい。

人はつい、成果を上げている他人に目をつけて、彼らと同じ方法で、同じ成果を上げようと期待、妄想してしまいます。しかし本当は、目を閉じて、自分の内側から「独自の成果を上げる方法」を工夫していくべきです。振り回されない、ということです。

オリジナルなルートでオリジナルな成果を描け。

そうやって、嫉妬という感情から、まず完全に降りてしまいます。  
その上で、もしまだ認められたいという気持ちがあるのなら、「では、自分に何ができるだろう?」「わたしは、今自分にできることを十分やっているだろうか?」「まだできることがあるのではないか?」と考えるようにします。

千里の道も一歩から。

ブッダが教える〝慈しみ〟という大前提から始めるなら、「誰かの役に立とう」と考えることが基本になります。貢献すること。よきはたらきを果たすこと。〝慈しみ〟という言葉が大きすぎるとしても、「貢献することが基本」という考え方は、多くの人が納得できるのではないでしょうか。  貢献という動機に立てば、「では、この場所で自分にできる役割は何だろう?」と最初に考えることになります。そのときに、本当の〝自分にぴったり合った人生〟がスタートするのです。

相手のために自分が何をできるか本気で考えること。

究極のところ、人間の動機は「貢献」です。どんな人も、「お役に立てればよし」なのです。貢献という動機に立って、できることをして、暮らしが立って、ほんの小さな喜びや楽しい出来事が日々に見つかったら、もうそれで十分ではありませんか。

徹底した貢献。これを企業の軸に据えるのはアタリマエ。だが日本はサービスがヒートアップしているので、その貢献で疲弊するかもね。でもやる価値はある。とことんやろう。

考える「基準」を持つ

しかし、ふと気づいてみると、いつまで経っても「これでいい」という安らぎや納得にたどり着けません。心はいつも「まだ何かが足りない」という思いに駆られています。心はなぜか、いつも渇いています。

満足はコンフォートゾーン。コンフォートゾーンは非常に心地が良い。安らぎと納得が得れる。
しかし、心は渇いているためラーニングゾーンを求める。しかし、またコンフォートゾーンに本能的に引き戻される。そうすると停滞することになり、成長が得られない。成長意欲も立派な”欲”である。それゆえに苦しむことになる。ただ、どちらかというとラーニングゾーンのほうが心地が良い。じつはこちらがコンフォートゾーンなの?とも思うくらいである笑

日々の仕事や家事も、「自身が納得できること」を基準にすれば、外の世界に振り回されることは減っていくでしょう。  もちろん、ままならない現実、わかり合えない人間は、これからも現れてくるでしょう。しかし、そういうときこそ、いたずらに反応せず、ぐっと目を閉じて、心を見つめて、「正しい心がけ」に戻りましょう。そうすれば、「納得」が残ります。

なにかままならない現実、自分の納得とはちがう現実が目の前に現れたら、一旦目を閉じる。そして、流されずに「正しい心がけ」をする。

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この記事を書いた人

1992年生まれ。30歳のときに活力の衰えを感じ、危機感を覚える。テストステロン値の低下が招いたものだと仮説立てる。筋トレを再開してから、活力がみなぎる。趣味はゴルフ。

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