僕は東大時代に、手痛い失敗を経験している。自分の中に灯っていたすべての火が消え去るほどの、人生の暗黒時代と呼べるような時期を経験したのだ。
その経験をきっかけに、僕は自分自身について深く考えることになった。
手痛い経験や失敗から人は大きく成長する。ここで内省しきれないと大きな進歩もなくまた同じ失敗を繰り返す。
生まれや学歴が1円の価値ももたない勝負の世界で、優勝回数世界一を保ち続けるために、僕が導き出した答え。 それは、最大の武器だった論理や効率を、かなぐり捨てることだった。
書き出しがすでにおもしろい。
僕は、僕のすべてをゲームに捧げている。ほかの格ゲープレイヤーからも、僕の「ムダの排除ぶり」は度を越しているといわれる。ムダとは、ゲーム以外のあらゆるものだ。
情熱=没頭。情熱が論理をはじめとした小手先のテクニックを凌駕する。
そんなわけで、ほぼゲームしかしていない僕が何かを学び、人間的に成長するチャンスがあるとしたら、それは「ゲームを通じて」以外にはあり得なかった。
人間関係のイロハも、ゲームセンターで学んだ気がする。より具体的にいえば、いわゆる「空気を読む」ことの大切さを初めて知ったのも、ゲームセンターだった。
没頭、情熱を傾けたことから人間的に大きく成長する。
つまり、自分がやらなければいけないことを絞り込み、それを徹底的に反復練習する。その感覚はゲームも受験も同じなのだった。
ゲーム、受験、スポーツ。どれも本気で取り組んで見れば、共通項が見えてくる。
何かに真剣に取り組むと、たとえそれがゲームであっても、いつの間にか、成功するための「型」のようなものが身につく。これが実は、まったく別のことに生かせる「応用力」のタネなのである。自分では気づかなくても、何かを真剣にやっている人は、他の何かで思わぬ成果を上げることがある。意図せずとも、身につけた型が応用力として開花するのだ。
“真剣に”やることが大切。真剣に没頭して取り組まなければ、得るものは極小。
ゲームのときと一緒で、研究をしていると、すべてのことを忘れ、没頭できた。大学4年の1年間、僕は、ゲームをしたい、とすら思わなかったのだ。
キーワード「没頭」
格ゲーひとつ極めるにも、強くなろうと、世界一になろうとすれば、前述のように、ひたすらな努力を重ねて自分なりの型や方法論にまで昇華させることが必要なのだ。半端な気持ちや、暇つぶし程度の時間のかけ方では、絶対に勝てない。
どの世界にも共通している事柄。
成果を残せる人間と、そうでない人間の違いは何か。答えは情熱である。 情熱がないのは論外、2人いて2人とも情熱があるなら、より高温の情熱をもっていたほうがより大きな成果を上げる。これが、僕が情熱について出したひとつめの結論だ。ではなぜ情熱が大切か。それは、情熱がなければ、真剣に取り組めないからだ。人を動かし、何かを生み出すような真剣さは、ひとえに情熱から生まれる。
情熱が人を焚き付ける。
情熱を燃やせるものが、何もない。本気でやれば、僕はどんなことでもいい成績を出せるという自信があった。でも、本気になれない。本気になれさえすれば。でも、本気になれない――。不安に駆られた僕が選んだ行動は、「逃避」だった。この研究室には、僕が本気になれるものがない。だから、研究室の外に、それを求めたのだ。
情熱に浮かされて物事に取り組むことを知ってしまった者にとって、情熱なしの人生など味のしない飯のようなものなのだと、この頃の僕は気づいていたのだろうか。
アツい。情熱、没頭。
それがなぜ、僕には大きな挫折に感じられるのだろう。何が、これほど僕を苦しませるのだろう。この挫折は、僕にとってどんな意味があるのだろう。どうしたら、僕はこの迷路から抜け出せるのだろう。散らかり放題の一人暮らしの部屋で、孤独な自問自答が続いた。
病み期は必要。そして、その病んでいる時期、考える時期、内省する時期に答えを探す。
苦しみや挫折に意味を考える。ただ「あー辛いな」では成長がない。意味を考えて、自分なりに答えを出す。周りの力を借りても良い。
だからこそ、怖くなったわけだ。自分の情熱を燃やすものがない世界に、いまいることが。俺はこのまま、死体のように生きていくしかないのか。
わかる。屍。
安定して働くことができたら、それでいいじゃないか。僕はそれ以上は何も望まないし、それ以上のことができるとも思えない。僕は自分を、そう納得させようとした。 だが、そういいつつももう1人、話を聞いてみたい相手がいた。その頃、既に日本初のプロゲーマーとしての活動を開始していた「ウメハラ」である。
運やめぐり合わせのタイミングもかなり重要。
そして、運を掴むには行動をし続けるしかない。「運が無いので・・・」というのは、言い訳に過ぎない。
運を掴むまで行動しつづける。
「でもね」 と、ウメハラさんが続けた。一語一句は覚えていない。でも、メッセージは明確だった。 「本当に好きなことなら、チャレンジしてみるのも悪くないと思うよ。1回しかない人生なんだから」
しかし、この就職活動は「この仕事には、情熱を注げない」ということを確認しただけで終わってしまった。向いているか向いていないかの問題ではない。僕ははっきりと、「自分はこの仕事をやりたくない」と思った。
向いている向いているかは問題ではない。いや、僕の意見としては向いていることは必要だが、そこにやりたい!が重なる必要がある。やりたくない仕事で成果を出せるはずもない。
彼らは、望んでその場に来ているようには、とても見えなかった。 僕自身、その気持ちは痛いほどわかっていた。安定が魅力の平坦な職場、合理的には就職先として適していても、心が望んだ選択でないのは、僕も同じだったのだ。
僕も会社員のころ、同じ気持ちで周りを見ていた。みんな暗い。彼らの大半も僕もまた「安定」などの言葉に導かれて、流されてたどり着いたのだろう。心が望んだ選択ならあの表情にはならないはずだ。
「頭」が必死に安全・安定策を出していたけれど、その提案を人からも聞いているうちに、「心」が大きく首を横に振った。 やっと、決まった。
情熱に浮かされ生を燃やす快感を知った僕は、もう情熱の芽のない場所では生きていけないのだ。「心」の声を無視して無理やり適合しようとしても、生ける屍に逆戻りする。
心の声を無視しては行けない。情熱を傾けれるものがあればそこに傾倒する。保身は不必要。
保身に走ると、生ける屍に戻る。情熱、没頭。
なんでもできると思った。好きなことに前のめりになった僕に、できないことなどない。しかもこれは、自分の心に自分で灯した、自分の火。誰かに移してもらったものでないから、消えることもない。やったろうじゃないか。僕はプロゲーマーになるのだ。
自己肯定感と自己効力感。そしてその勇気。
いわゆる安定した仕事、プロゲーマーという仕事、どっちを選んだところで、未来のことなどわからない。それならば、役に立たない論理など脇に置いて、面白そうなほうを選べばいいではないか。
心が進む方へ進む。
そうそう、楽しいときが一番伸びるんだったよな、勉強も、ゲームも、研究も。 僕は、楽しければいいよねという甘ちゃんに変貌したのではない。僕の闘争心は、みじんも縮んではいない。あくまでも勝つために、新しい自分を求めることにしたのだ。「勝ちたがり」の僕は、やっぱり勝つために、尊敬すべきライバル、そして仲間たちから学んだ。
楽しければよい=あまちゃん
僕は楽しい。「ゲームで生計をたてられること」に対する感謝の気持ちが、この楽しさの源泉だと思う。こんなことは、ほんの4年前には夢物語でしかなかったのである。だから僕は、ゲームの世界に恩返しがしたい。
人と交わることなしに独りでやっていては、強さの向上に必ず天井があるのだ。僕は、ゲームセンターがあったから、強くなれた。
僕も仲間がほしい。そのために努力を惜しまない。
他者とのコミュニケーション力と、格闘ゲームにおける強さには、密接な関係がある。というより、コミュニケーション力のある者が強くなる。
これはどこの世界でも同様。他者との対話を通して人間的にも成長する。
人間は、年齢を重ね、キャリアを重ねるうちに、自分の成功体験に縛られ、新しい知識を受けつけなくなっていく。それは人間である限り、誰しもが直面することかもしれないが、新しい知識を習得する機会を失えば、そこで成長は止まる。
過去に縛られること=人間的な成長の停止
しかし、1人で情熱を燃やし続けるのは、とても難しいことだ。少なくとも僕自身はそこまで強い人間ではないと、これまでの経験から学んできた。
僕も同じだ。
でも。でも、である。情熱がないフリ、好きなものがないフリも、しないほうがいいと思うのだ。人生は1度きり。10年後、「あのとき本当は……」と後悔しても、遅い。得意だった論理をかなぐり捨て、情熱という目に見えないものに人生をかけてみた僕がいえることが、ひとつだけある。
情熱は、論理を凌駕する。
情熱はとんでもない力を発揮する。
これはクールフィットネスジャパンの活動経験を通して感じていることだ。「自分にはこんな才能があったとは」という発見の連続。情熱を傾けるとあらゆることに開かれる感覚。
自分のなかに情熱の火種が見つけられない人は、情熱をもつ人のそばにいってみるのだ。自分だけの情熱を見つけたいと思ったとき、とるべき最短ルートは、既に自分だけの情熱をもっている人のそばにいくこと。
なるほど。アツい人に会いたいですね。